今回は以前から心の底(?)で思っていたことを書いてみる。
客観的に見ても、かなり過激な内容だと思う。
しかし、私の心の中ではそう考えてるんだからしかたが無い。
気分を害される人がいるかもしれない。
ごめんなさいね。
先日、池田小学校の児童殺害事件の犯人が死刑執行されたと報道されていた。
最近、凶悪犯罪が多いのに、あまり死刑は行われていないんだなぁと驚いた。
場合によっては病気とか年齢を理由に死刑をしない場合もあるような話も見た。
私は死刑賛成派。
凶悪犯罪を犯して死刑が確定したなら、じゃんじゃん殺すべきだと思っている。
だって、死刑になるのに、生かしておくのは税金の無駄。
そして何よりも、死刑で得られる最大の効果が薄れてしまう。
今回の死刑執行は、報道も何もせず、ひっそりと行われていた。
もったいない、実にもったいない話だ。
私は死刑を「見せしめ」としてもっと有効活用すべきだと考えている。
極端なことを書けば、公開処刑にしたっていい。
もしも「何月何日に死刑執行が決まった」と報道されればどうだろう?
誰もが犯罪者の行く末を考えることだろう。
さらに、死刑執行の現場を生放送したらどうだろう?
それなりの国民が放送を見て、「自業自得」と思うに違いない。
そんな時、今まさに犯罪を犯そうとしている犯罪者はどう考えるだろうか?
自分もあんな結末を迎えるかもしれないと考えたとき、安易に犯罪は犯せなくなるのではないだろうか。
さらに過激なことを書かせてもらえば、今の死刑は極刑ではない。
私が考える本当の極刑は、死なせずに苦しみを与え続ける残酷刑だ。
地獄の苦しみを与え、断末魔の叫びを上げながら死んでいってもらいたい。
こんなことを書けば、「残酷だ」と言われそうだ。
確かに残酷だと思うが、その本当の目的は「死刑になりたくないなら犯罪を犯すな」というところにある。
残酷だとか、人間性を云々する前に、犯罪を減らす方法を考えるべきだ。
犯人が「死刑にしてくれ」と簡単に言うのは何故か。
苦しまずに死ねるからだ。
それが痛みと苦しみを伴うなら、死刑になりたいなどと簡単に言わないだろう。
犯人は「死刑になってもいい」と思うかもしれないが、「残酷刑になってもいい」とは思わないはずだ。
残酷刑の条文があるだけで、実際に適用されるような事件がおきない社会が一番いい。
しかし、それでも犯罪が全て無くなることはないんだろうなぁ。